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■日本海海戦の真実/野村實/講談社現代新書

 「・・の真実」とあるが、これまでの史実を大きくひっくり返そうというのではない。
 日本海海戦の状況は、既に司馬遼太郎によって「坂の上の雲」によく書き表されており、本書では、その後に新らしく発見された資料によって2、3の修正を行なうというものである。

 その新しく発見した資料というのは、「極秘明治三十七八年海戦史」150巻であるという。この資料は何セットか存在していたが大東亜戦争直後にほぼすべてが焼却され、1セットが皇居に残っており、戦後30年を過ぎて防衛研究所に移管され所蔵されることとなった。司馬遼太郎が執筆した頃は、この存在は知られておらず、したがって、いくつかの事実がここに明らかになったということである。

1 バルチック艦隊の通過コースの予測(津軽通峡の可能性も大いにあり。)  対馬か津軽か宗谷か、極端に情報が少ない中、難しい判断を迫られていたわけであるが、司馬遼太郎の本では、ひとり東郷だけは「対馬を通る」と確信していたとされている。しかし、この極秘図書によると実際は、24日には津軽へ向かう計画が書かれた密封命令が配布されており、25日午後には連合艦隊は北(津軽)へ移動する準備をほぼ終えていたという。
 25日に三笠艦上で軍議が行なわれ、結局は
 「次の情報を待って(26日正午まで)決すべし」とされた。
 この決定を見るには、第2艦隊司令官の島村速雄の意見が大きく影響したという。その意見の主旨は「バルチック艦隊は極めて長期の航海をしており、太平洋へ迂回することはない」といいうものであった。(ペルシャ湾での機雷掃海にPKO初参加した落合元海将補が後日談で、「日本への帰路、ロジェストウィンスキー中将のの気持ちが良く分かった」とおっしゃるのを伺った。長期航海の後、とにかく早く帰りたい、ということであった。)
 そして26日早朝の、輸送船の分離・ウースン(上海北の軍港)入港の情報を得て、対馬通峡を確信し決戦の準備に入ることになる。
 ・・・
 要は、情報の少ない中、厳しい情勢判断が最後まで続けられ、ぎりぎりのところで勝利の女神が連合艦隊に顔を向けたということであろう。

2 丁字戦法の考案者は秋山真之ではない。
  このような定説が生まれたのは、当時軍令部参謀であった小笠原長生による秋山・東郷美化活動に負うところが大きいらしい。
 また、司馬遼太郎の「坂の上の雲」では、東郷の「実戦の経験から出たかんがこの戦法をとらせた」としている。
 しかし、実際は「連合艦隊戦策」に丁字戦法として記載されており、所要の訓練と立付け(リハーサル)が行なわれていた。
 ・・・
 当然といえば当然であろうし、いきなり「かん」で発動できるものではないし、戦法はさまざまなレベルで練りに練られドキュメント化されたのであろう。


 さて、バルチック艦隊は22日沖縄本島と宮古島の間を通航し東シナ海に入る。
 そして、25日には決戦に備え、輸送船をウースン(上海北の軍港)に向かせるが、これを日本側は26日早朝に知ることとなる。
 対馬通峡に際しては、27日正午の位置を東水道と定めた。水雷艇の夜間攻撃を恐れての処置という。

 そして、そのその航海計画どおり、バ艦隊は1200に東水道中央に達する。
 連合艦隊はこれと会合すべく既に27日早朝鎮海を出港、1339には東郷司令官が敵艦隊を自ら視認する。1408敵艦からの初弾により一大海戦の火蓋が切って落とされる。
 あとは、日ごろの訓練成果が見事に発揮され、パーフェクトの戦果。我れは水雷艇3隻の損失のみであった。

 特に、目新しいとことはないのではないか、と言ってしまえば実も蓋もないことで、世界的海戦について正確が期されたことの意義は大変に大きい。司馬遼太郎の作品が日本国民に与えている影響が大きいことからそれだけにきちんとしておくべきことである。

 それにしても、当時の日本、すごかった。
 ちょんまげを切ってからわずか37年。これまでの巨大システムを作り上げ、完璧に運用したのである。
 感激するのは、おじさんだけかしら。
 きちんと話して聞かせれば誰だって感激するはずだ。オリンピックと同じだもの。
 特に、なんとなく無気力で冷めた子供たちに聞かせたい。ほんの半日でよい。
 教育の大切さを思います。

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